ソロバン弾く奴は弾かれる
数は力です。
過程より結果を求められる世界に長くいるとソロバンのはじき方が上手になるみたいです。
むしろエグい、とも言われるようになり「切り捨て御免」を覚えることができたりします。。
悲しいかな、何を基準としているのかが見えないだけで、人には必ず、己のソロバンがあるのです。。。
何処かで誰かが弾いています。
いや、何時でも誰もが弾いています。。。。
パチン、パチン、と。。。。。
「。」の数を徐々に増やしてみたのですが、特に意味はありません。
雰囲気です。
話を戻しますが、数は力。
と言いながら人を弾いて数を減らすなんて、なかなか矛盾しているような気がしますね。
しかし、コレは自分が群れに居続ける為の自己防衛本能とも言えるでしょう。
「群れ」ってね、なんやかんやで、私利私欲が蠢いてて、しかし、それが原動力になってたりもして、互いが互いを利用し合って出来上がってると思うんです。
そうじゃなかったら、一緒にいる意味なんてないですからね。
団体の中に居るメリットは自分にとって利用価値があるかないかでしかないと思うのです。
勿論、そんな事を真顔で言う奴は嫌われますよ。
そこには情なんて微塵もないですからね。
でもね、逆に言うと、群れにとって、自分の利用価値がなくなったらそこには居られなくなるのです。
アレ?コレって、結構、怖い事だと思いませんか。
だって、さっきも書いた通り、誰もがソロバン弾くんですよ。
子供の頃から、ずっと花一匁(はないちもんめ)状態です。
誰だって、嫌だ嫌だと言いながら、虎視眈々と愛想笑いを振りまきながら、しっかり、線を引いているんです。
だとしたら、今は、「コッチ側」なのに、いつの間にか「アッチ側」に自分がいたりすることだってあるのではないでしょうか。
つまり、ある程度の「群れ」が出来上がった時、各々の価値観を照らし合わせて、邪魔になる人は排除されるのです。
その光景は、まさに、「カルネアデスの板」だったりするわけです。
逆に必要な人はドンドン追加されたりもするので、本当に選ばれた人を厳選する「ノアの箱舟」が出来上がります。
ただ、「ノアの箱舟」の中でも「カルネアデスの板」は実施されているので、いつ自分が追い出されても可笑しくない状況はずっと続くのです。
だからこそ、自分を陥れようとする不埒者は己で排除しないといけなくなるわけです。
「群れ」の中にいるのは楽だからね、一人でいることは怖いからね、弾かれる前に弾くって言うね。
ただ、気を付けてください、それでも、いつかは、必ず、誰もが「あっち側」に追いやられるんです。
だからこそ、オイラは強く思うのです。
続く。