しかしながら、ルールも色々あったりしますよね、昔『カテゴリーボックス』と言う物語でルールを題材に「差別と区別」の違いについて書いた事がありますが、結局、答えに辿り着くことはなくバットエンドを迎えてしまいました。

きっとね、どれだけルールで区別しても偏見から差別は生まれてきたりするのです、どれだけ真っ直ぐなキャラクターを描いても、その世界には必ず歪んでいるキャラクターが登場するわけです。

世界平和と言う名の詭弁を謳うことは出来たとしても、本当の平和は『無』であると何処かで思っているオイラなので、作品に出て来るキャラクターが全ていなくなれば、その世界では、差別も区別もなくなるのにな~、なんてことを考えてしまうのです。

すると、アレ?だったらキャラクターをなくすよりも、そもそも、そんな世界を作ってる奴が消えた方が早いのか?なんてことを考えて筆がとまり先に進めなくなるのです。

そんなことこと考えても仕方ないのにね。

ただ、安易な答えを提示したくなかったんでしょうね。

『そんじょそこらの浅い物語なんて描きたくない』みたいな志を持って別の道筋を独学で探してみても、結局はタイムオーバーで物語が破綻してしまうと言う、若気の至りと言うか浅はかと言うか、今思えば狂気の沙汰ですね。

別に昔の物語の作り方を否定はしませんが、おそらく正しくもないのでしょう。

逆に現在の作り方が正しいのかと言われると、それはそれで違うような気もしているので、新しいやり方に挑戦してみる時なのかなとも思っています。

しかし、懐かしいですね「カテゴリーボックス」。あっ。そうです、その公演が終わって『マジェスティ』を買ったのでした。

忘れそうになっていましたが、今回は『マジェスティ』にまつわる話でした。

メインの話に行くまでになんと3000文字を超えてしまいました。

すでに3月です、稽古も始まっています。現時点でおそらく台本が書き上がっていないオイラだけに、このコラムを見てくれてる出演者がいたら『早く台本書けよ』と言われてしまいそうです。

役者が皆待っているんだ、と冷ややかな視線が飛んできそうです。

しかし、オイラは、そんな同調圧力には負けません。

エッセイと言う名の日記を書き続けてやりますよ。

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