作・演出が主演やるって、もはやパワハラ

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覚悟があれば何でもできる。
そんな時代じゃなくなっているのかもしれませんね。
今や決定権を持ってる奴が独断で覚悟なんて決めたりしたら大変なことになるのです。

『お伺い』コレとても大事。

気が付いたら9月。
何かをしていても、何かをしていなくても、平等に時間って奴は流れていくもんです。
だったら、なんかやっておいた方が「人生楽しめてる感じ」が、するってもんじゃないですか。

「そんじゃ、なんかやってみようっ」って時に、もしも、「if」なんて選択肢がアナタの目の前に飛び込んできたらどうしますか?

オイラの場合、「if」の先に、何か見たことがない景色が見えるのではないだろうか? なんて想像が膨らんだ場合「コッチだ」と思う答えを「見えないフリ」して逆を選択したくなる、屈折した願望が芽生えることがあります。

解ってはいるんですよ。
「失敗するんだろうな」ってことくらい。
だからね、やらなくなるんです。
ドンドン、ドンドン、歳を重ねると、まったく、嫌だ嫌だ。

知らないうちに、何処かの他人の教訓なんてのを鵜呑みにして、勝手に自分に当てはめて「なるほど~」なんて理解して成長した気になって、間違いを回避することによって、ある意味、自分の可能性を潰していくんです。

誰かが必死こいて辿り着いた教訓なんて、所詮は誰かの結果論でしかなくて、必ずしもソレが自分に当てはまるとは限らないのです。
だからこそ、誰も選ばないような道を選んで「自分の教訓」を作るべきなのです。

だけどね、無理~。
弱い自分が「失敗するぞ~、失敗するぞ~」って、襲い掛かってくるんですよね~。

つまり「保守派、最高」って、思ってる自分が何処かにいるのです。
そして、そんな自分を嫌いじゃない自分が何処かにいるのです。

昔から居ましたよね。
「自分が嫌い」って言ってる自分が「実は好き」みたいな奴。

多分、それ、オイラです。
単純に天邪鬼で、それ言っとけば許されるだろう。みたいな。

『きっと、オイラの人生は言い訳で出来ている』

うん。
なかなかいい自伝のタイトルが生まれた気がします。

お芝居なんてできないけど、いつかやってみようかな、主演で。

こないだ、誰かが言っていました。
「今の時代、『作・演出』が『主演』やるって、それだけでパワハラだよね」って。

あはは。

タイトル回収するまでに結構な文字を費やしてしまいました。
コレが台本だったら、スゲーカットすることになるでしょう。

しかしながら、少し前までは、『作・演出』が主演をやるなんて、結構、当たり前で、それがまかり通る時代だってあって。
むしろ、それをやりたくて始める人が生まれる位の正義だった時代があったのです。

勿論、自重しない奴がやったら、やりたい放題です。
ルール決めたい放題ですからね。

なんと言うか【正しい事、悪い事】の「モノサシ」は、まるで『オセロ』のようだとは思いませんか?

例えば。。。

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