「勝てば官軍、究極結果論」を掲げているオイラは、ココまで負け戦を繰り返して賊軍の賊軍となり下がっているわけですが。
歩くことをやめない限り、もし、何処かのタイミングで官軍にでもなろうなら、全てはオセロのようにひっくり返った世界を目の当たりにすることができるのではないかとも思うのです。
つまり、この世がオセロなら。
ひっくり返される駒ではなく、ひっくり返す側の駒になりたいのです。
だって、ひっくり返される側のオセロの駒って、黒だったり、白だったり、バンバン、バンバン変わって、結局、「自分って、白と黒、どっちなの?」って分からなくなって、流された世間の正義に「違和感を持てなくなってしまう」ような気がするんですよ。
まあ、民主主義国家の基本は多数決ですから、それはそれで「仕方がない」と思ったりもしますが、根本的に、ひっくり返す側の人が駒を操作してるわけですから、それは操作された多数決になるのではないでしょうか?
そんな中、もし、ひっくり返らない駒が現れたら世界はどうなってしまうのだろう?
そんな、ゴールも着地点も見えてはいない「フワフワした物語」なんだけど、どうかな?
って、話をしたら、もっと「ちゃんと考え直した方がいい」と諭されました。
まあ、そうなるわな。
んっ? なぜ? 諭されたかって?
それは、フワフワしたイメージのみが先行した物語って「広げた風呂敷が畳めなくなる」つまり、破綻した物語が「また」生まれるからです。
「また」?
ありますよっ。
これまでに破綻した物語を書いたことくらい。
何本、書いてきたと思ってるんですか。
最終的にフワッと終わる? みたいな。
結局、何の話だったの? みたいな。
所詮は作家の戯言、みたいな。
公演後に誹謗中傷の嵐ですよ。
あはは。
だけどね。
その時はそれでいいと思っていたりもしてたんですよ。
『別にドラマが破綻してようが面白い物語は作れる』みたいなことをドヤ顔して言ってたし、若き日のオイラ。
・。
・・。
・・・。
怖っ、いや、もう「怖い」を通り越して「清々しい」です。
何処から湧き上がっていたの、その自信? 今のオイラに少しだけ分けてほしいっす。
百歩譲って、無知であるが故の怖いもの知らず。
みたいなこともあるかとは思いますが、ルールを無視できるのは若者の特権なのかもしれませんね。
というか、そもそも、本を書いてきたって言っても独学だからね。
ルールなんて知らなかったし、トライ&エラー、失敗した道にこそ独自ルールが生まれてきたのかもしれないです。
つまり、経験値が増え自分ルールができたことによって、今では、ノリで橋を渡る事ができなくなってしまったのです。
石橋を叩くどころか、橋の設計図を見直して、大丈夫と確認するくらいの慎重さ。
誰かが言っていました。
人生と同じで、物語を作る上で大事なモノは「好奇心」だと。
きっとね、好奇心って悪戯心(アソビゴコロ)から生まれてくるんだと思うんです。
それを失くしたら人生半分損しちゃうような気がしませんか?
思い出せ、オイラの中の悪戯心。失敗なんて恐れるな~~。