今日は来客が多い日だ。沈黙が訪れるたびに、まるでその静けさを奪うためにドアは開いた。まるで退屈という名の波を打ち消そうとする潮の満ち引きのように。あるいは、暇つぶしが次々と店内に滑り込んでくるという方が的確だろうか。とにかく、「静けさ」という言葉に挑むような勢いで、スナックの夜は展開していた。

「すみません、遅くなりましたっ!」と明るい声がスナックに響いた。登場したのは車田雅実だった。しかし、その言葉にはどこか引っかかるものがある。彼女はこれまで遅刻という概念を知らないように働いてきた。そう、時間とは常に彼女の味方であり、時計は彼女に忠実に従うものであるかのように。それが今日に限って「遅くなりました」なんて言葉を聞いた瞬間、リリーは「何かあったのか」と一瞬眉を寄せた。

「雅実が遅れるなんてね、何かの悪い予兆かしら?」リリーがグラスを磨く手を止めないまま問いかけると、車田は慌てて手を振った。「いやいや、そういうのじゃなくて。今日は少し特別なお客さんを連れてて」と笑みを浮かべつつ、後ろを振り返った。

その瞬間、扉の向こうから一人の女性が姿を現した。足立の視線がその顔に止まった。記憶の底に沈んでいた何かが浮かび上がる。彼女はゆっくりとスナックの中に足を踏み入れた。

「杏子ちゃん?」足立の口から自然と名前が漏れる。声には驚きと戸惑い、そして懐かしさが混じっていた。

その声に杏子は気づき、かすかな微笑みを浮かべながら足立を見た。「一平さん、久しぶりです」と、少し緊張気味に答える。

「一平…さん?」足立は微妙な違和感を覚えた。10年前、彼女は自分を「一平ちゃん」と呼んでいたのだ。近所の子供が懐いているような、気安いあの響きが、今はすっかり「さん付け」に変わっていた。「久しぶりです、一平さん」杏子が軽く微笑む。その微笑みには少しのぎこちなさが混じり、長い月日が生んだ距離感が感じ取れた。

足立は懐かしさと同時に、目の前の杏子に時間の流れを強く感じていた。「随分変わったね、杏子ちゃん。都会に出て、立派になったんだな」

杏子はその言葉に少し驚いたような表情を浮かべたが、「ありがとうございます。でも、久しぶりに地元に戻ってくると、昔と変わらないところもあって、少し安心します」と静かに答えた。その声にはどこか複雑な感情が込められていた。

リリーがその様子を見て、「杏子が戻ってきたとなると、九海丸も賑やかになるわね」と笑顔を見せると、杏子は少しだけ表情を曇らせた。

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