前回、今回の台本はプロット風小説を書きながら進めてきたので、その初期バージョンがあるんですよ。

なもんで、障りの部分が残っているので、何処が違うかは読んでみて、実際の舞台を見て確認してみてください。

それでは、アルカの板。初期構造編です。

『アルカの板』

それは、もし「現在」をどこかにカギ括弧で括るならば、きっと「過去」に分類されるだろう物語だ。 だってそうだろ、今ここで語られるのは、井上花道という男の「最後の」出来事なのだから。

港はまだ夜明け前の顔をしていた。薄暗く、どこか気怠げ。それでも漁師たちは、いつものように忙しそうにせかせかと動き回っていた。このあたりでは、朝の風景に”忙しい”を欠かすことはできないらしい。それが空気の味付けみたいなものだとでも言いたげだ。

九海丸の船着場では、井上花道が漁具を一つ一つ、まるでそれらが今生の別れ相手であるかのように、丁寧に点検していた。彼の顔に刻まれた皺の深さは、漁師としての年季をそのまま地図にしたようなもので、見る人が見れば尊敬の念を抱くに値する。もっとも、本人はそんな風に見られることに興味があるタイプではない。むしろ「今日は風が厄介そうだ」とそればかりが渦巻いていた。

「準備、怠んなよ!」 花道が放つその短い指示は、不思議と弾丸のような鋭さを持ち合わせている。聞いた相手は例外なく「はい、井上さん!」と、すぐさま動き始める。指揮官顔負けのその存在感は、まるで、背中に”信頼者カード”でも配られているかのようだった。いや、そんな大袈裟な話ではない。ただ彼がそこに立つだけで、周囲に影響を与えるという”人の種”なのだ。

空が少しずつピンク色に染まり、港に光が差し込む頃、九海丸は静かに船を出した。そのエンジン音は、夜の名残を背負った港を揺さぶりつつ、次第に海へと溶けていく。

「今日の風は――厄介だな。」 これは誰に向けてでもない、ほとんど独り言だった。しかし、冷たい潮風に掻き消されることなく、それは空気の中にしっかりと漂った。もし潮の流れに耳があったなら、それを聞いてざわついていたかもしれない。

漁場に着くや否や、予感は現実に変わった。風が唸り声を上げ、波は船体を叩く。それは単なる自然現象というよりも、むしろ「ここには来て欲しくない」という意志表示のようにすら思えた。花道は甲板に出て状況を確認しようとしたが、足元が言うことを聞かない。そして次の瞬間、彼の身体はそのまま甲板の外へ滑り落ちる。

「井上さん!」 仲間の叫び声が、その場に響いた。いや、正確に言えば、その叫びは音の波紋となり、漁師たちの胸の奥に鉛のような重さを落とした。その中で、花道は必死に救命具に手を伸ばした。だが、海は彼を歓迎する気はなかったらしい。荒れ狂う波がそれを飲み込む。やがて、花道の姿は海面の泡立ちの中に溶けていった。

残されたのは泡と、ひとつの静寂。船上の漁師たちは何も言えず、ただその場に立ち尽くしていた。誰かが「井上さん」と弱々しく口にしたその声だけが、風に乗って遠くへ消えていった。

そのころ、港の事務所では柚が帳簿と睨めっこしていた。数字の羅列を前に、「今日の敵はこのページだな」と、どこか軽い冗談めいたつぶやきを漏らす。窓から吹き込む潮風がふいに帳簿の一枚をめくり、その無言の動きに「ご丁寧にどうも」とペンを指で回しながら笑顔で応える彼女は目を伏せながらしばしの休戦を心の中で宣言した。

一方、杏子は事務所の隅でノートパソコンを開きながら、軽やかにキーボードを叩いていた。時折画面に映るコードを眺めては、満足げに微笑み、さらに手を動かす。窓際に置かれたカップの温かいお茶からは、ほのかに香りが漂い、潮風がその香りを静かに運んでいた。 「これが完成すれば、父さんもきっと驚くかな。」ふと独り言のようにつぶやきながら、杏子は視線を再び画面に戻す。その瞳には、どこか希望めいた光が宿っているようだった。

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