朝の港は静かだった。あまりにも静かで、澄み渡る空気が肌を撫でるその瞬間には、昨日という日がただの妄想だったのではないかと思わせるような気配が漂っていた。海は10年前と変わらない顔をしている。何かが変わってしまったのだとしたら、それは海ではなく、見る側の心に違いない。柚はそんな考えを軽く振り払い、袖を巻き上げた。
九海丸の甲板で、潮風は柚の頬を滑り抜ける。冷たい網を手にしながら、「さて、今日もよろしく頼むよ」とでもいうように船に目を向ける。網の感触は彼女にとって、日々が始まる合図だ。水平線を見つめるその目には穏やかさがあり、けれどその奥には緊張が共存している。その静けさに隠された緊張は、今日という時間の一部のように溶け込んでいる。
船が静かに動き出す。エンジン音が波の音に溶け、海はその奥にある真実を何も語らない。ただ、柚はその沈黙を知っていた。その海の表情には希望も絶望もあった。彼女は網を引き上げる動作に集中しながら、自分の手の先にある現実と向き合う。風を読む、船を読む、自分を読む。それはすべて、彼女の体に刻まれた習慣のように自然だった。
網を引き上げると、中には跳ねる魚たちが現れる。その結果は大量でもなく少量でもない。期待を超えないけれど裏切りもしない。まるでこの海のあり方そのものだ。柚はその結果に感情を浮かべることはない。ただ、受け止める。「まあこんなものか」それが彼女の心の中に浮かぶ唯一の言葉だった。
遠くの水平線が光に揺れる。揺れ動くその景色は、彼女の心に微かな波を立てた。柚は胸の中でそっと呟く。「この海があるから、私はここにいるんだな」。それは確かな居場所を持つことの幸せとも、漠然とした孤独とも言える感覚だった。
港に戻ると、柚は次の仕事にすぐに取り掛かった。漁具の配置を調整しながら、仲間たちの声が背景に流れていく。その声は音楽のように彼女を包み、彼女の動きもそのリズムに溶け込む。船の縁に手を置き、柚は海に目を向ける。波に溶け込む船の影を見つめながら、彼女は短く息をついた。その瞬間が、彼女にとって港での最上の贅沢だった。
事務所に足を踏み入れると、午後の光が帳簿の山を柔らかく照らしていた。机に向かう母の手元はいつも通り正確だったが、その肩にはどこか目には見えない重さが落ちているように見えた。
扉を開けて中に入った柚は、母の顔が少しだけ上がり、微かな笑顔を向けてくるのを見た。その笑顔にどこか力がないことに気づき、彼女の心に小さな痛みが広がる。「大丈夫?」という問いかけを胸の中に押し込め、柚は黙って母の隣に立った。
その瞬間だった。ペンが机の上に転がる音が響き、母の体がゆっくりと傾いていく。長い一日が突然押し返されたかのように。柚は慌ててその体を支えようとしたが、母は椅子を滑り落ちてしまった。
床に散らばった帳簿や書類が音を立て、その重なりが母の背負っていた重荷そのものに見えた。母の顔を覗き込む柚の手は微かに震えていたが、その震えを押し殺しながら、受話器に手を伸ばした。震える指で番号を押して、「母が倒れた」とだけ短く伝える。その言葉は、まるで他人の声のようだった。
-
PR FILE 設置しました!
記事がありません
