荷物を詰める手は重たかった。スーツケースの中に何を入れるべきなのか考えつつ、杏子の頭の中では、封印したはずの10年前の記憶が音を立てて蘇っていた。父の死、柚との別れの言葉、そしてその瞬間に背を向けた家族の姿。それらが不意に押し寄せ、胸の奥を締め付ける。蓋を閉じたつもりの箱が、いつの間にか中身を漏らし始めたような感覚だった。
数日後、杏子は電車の窓から外をぼんやりと見つめていた。都会の鋼鉄の森が次第に緑の山々へと変わり、景色の移り変わりが彼女の心を撫でていく。その感覚はどこか懐かしさと不安が交じり合うもので、ただ静かにそこにある。駅に降り立つと、10年前から変わらない地元の風景が彼女を迎えた。港の匂いが鼻腔を掠め、遠い記憶が目の前に引き寄せられるようだった。
港へ向かう道は静かで、何も変わっていない。けれど、その空気の重みが杏子の胸を締め付け、歩く速度を次第に緩める。事務所の前に立ち止まると、スーツケースを持つ手が震えているのを感じた。深呼吸をして気持ちを整えた彼女は、扉をノックする。その音は、静寂を破るのではなく、むしろ静寂の一部としてその場に響いた。それは杏子自身の鼓動と重なり合うようだった。
扉がゆっくりと開き、そこに立っていたのは柚だった。杏子の記憶の中に刻まれた姉の面影と重なりつつも、年月を経て鋭さを増したその姿に、彼女は言葉を失った。ただ目が合い、その瞬間、何もかもが止まったように感じられた。
柚もまた、杏子の姿を目にして一瞬動きを止めた。事務所の机には母が使っていた帳簿や書類が散らばり、生活の痕跡が漂うその空間に、杏子という不意の存在が突如として現れた。風が二人の間をすり抜け、沈黙の空気がさらに濃密になっていく。
杏子は一歩中へ足を踏み入れた。その瞬間、緊張感がほんの少し緩んだように思えた。狭い事務所の中に彼女の存在が浸透するにつれ、柚の背中には微かに動きが生じた。その変化は誰にでもわかるものではないが、杏子にはそれが感じ取れた。彼女の視線は机に置かれた帳簿や書類に留まり、それらがまるで母の存在を代弁しているかのように胸に刺さった。
杏子は目を伏せ、深く息をついて言葉を探そうとした。しかし、言葉はどこにも見つからない。柚はその一瞬の動きを見逃すことなく、ただその場に立ち続ける。二人の間に横たわる10年間の空白は、埋められることなくその場に横たわっていた。しかし、その静寂の中で物語の新たな始まりが芽吹いていることだけは、紛れもない事実だった。
これは、井上花道が遺した船と、それが繋ぐ姉妹の物語。
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