使いなさいと言われているからです。
フラッグシップ戦略的なことをやるのには、ちょうど良かったみたいです。
どれだけ作風がブレようが、詩的な台詞だけは安定して多いと言われるオイラです。
その中でも使いやすく評判が良かったのでしょう。
なんか刺さる。みたいな。
書いたオイラもよくわかってないですからね。
だって、この言葉、そもそも、誤魔化しの言葉ですから。
昔から教訓や名言が好きなオイラです。
ある時、好きな教訓があって台本に書いたことがあったんです。
しかし、その名言を言った『人物名』を間違えてるから訂正しなさいと言われました。
ただ、実際は、その言葉って、オイラの『知り合い』の某〇沢君がよく使っていた言葉だったのです。
オイラは、ソイツが言ってたからこそ共感できたような気がします。
その後、調べてみたら、確かにその言葉は歴史上の誰かが言っていました。
ただ、オイラはその人のことなんて知らないのです。
もし、最初にその言葉と書物で出会っていたら、共感なんてしなかっただろうな、とさえ思うわけです。
だからオイラは、その台本では固有名詞を消して 『誰かが言った と 誰かが言った』と書き直したわけです。
ただそれだけです。
するとどうでしょう、今は、この言葉だけが独り歩きして、どんな作品にも顔を出すようになりました。
もうすでに、最初の意味合いも概念も変わっているのです。
作者が言っているから間違いありません。
言葉なんて、誰が最初にどんな理由で書いたかなんて関係ないのです。
作品だってそうです。
どれだけ作品が面白かったとしても、作家がプーさんのようなオイラだと分かった瞬間。
手のひら返しで「アンタが書いた作品じゃない」と罵倒してくるお客さんがいる世の中です。
『何を書いたのか』ではなく『誰が書いたのか』が重要なのです。
極端な話。
『何を言ったのか』ではなく『誰が言ったのか』が重要なのです。
だからオイラは素敵な役者さんに言葉を託すのです。
つまり、出所なんて探してもロクなことにならないのです。
だって、そこにはオイラがいるからね。
あはは。
まあ、しかし、オイラは天邪鬼でもあるので “誰が言ったか”に振り回されるのではなく “誰が言っても届く言葉”を探していたりもしています。
平等なんて絵空事だと分かっていても、憧れたりもするんです。
だって…。