朝の港は静かで、澄んだ空気が肌に心地よく触れた。海は10年前と何も変わっていない様に見える。

柚は九海丸の甲板に立ち、潮風を感じながら袖を巻き上げた。冷たい網の感触が、今日の始まりを告げる合図のようだった。海を眺める彼女の視線には、どこか穏やかさと緊張感が混ざり合っている。仲間に指示を与え、漁場への航路を決める。その一つひとつの動作に迷いはなく、習慣と信念が柚を動かしていた。

船が静かに動き出すと、エンジン音が波の音に溶け込んだ。海は穏やかな表情を見せながらも、その奥には漁師にとって厳しい現実を潜ませている。風の流れを肌で感じ取りながら、柚は網の引き上げ作業に入った。

手慣れた動きではあるけれど、そのひとつひとつに自分を支える力を感じていた。船上の漁師たちが黙々と作業を進める中、九海丸は柚の指揮に従うように見えた。

引き上げた網の中に跳ねる魚たちの姿が現れる。柚は静かにそれを確認しながら、必要な手を動かし、作業を進めた。その結果は予想の範囲内だった。大量でもなく、失望するほどでもなかったが、彼女の顔に焦りはなかった。それもまた、この海のありのままを受け入れる理由の一つだ。10年という歳月の中で、何度この海を見たのだろう。すべてを父の遺志として受け入れ、自分のものとして背負ってきた九海丸の存在が、彼女の背筋を張らせている。

休む間もなく次の仕事へと手を伸ばす柚だったが、ふと遠くの水平線に目を留める。光に揺れる水面が、彼女の心を微かに揺らす。「この海があるから、私はここにいるんだな」と胸の中でささやく声が浮かぶ。毎日繰り返される風景の中にある、確かな居場所を感じ取る瞬間だった。

港に戻った後も、柚の手は休むことを知らない。船の点検をする合間に、少しだけ漁具の配置を調整する。漁師たちの声が響く中、彼女の動きは流れるようだった。周囲の喧騒がいつの間にか音楽のように感じられ、彼女は自然とそのリズムに溶け込んでいた。

船の縁に手を置き、柚はまた海に目をやる。風が頬を滑り抜け、船の影が水面に溶けていくのを見つめながら、彼女は静かに深呼吸をした。どこかほっとするようなこの瞬間が、彼女にとっての港での一番の贅沢だった。次の漁の準備をするために、ゆっくりと事務所に足を動かし始める。

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