数日後、電車の中で杏子は窓の外をぼんやりと見つめていた。都会のビル群から緑の山々へと景色が変わり、気持ちの中でどこか懐かしさと不安が入り混じる感覚が広がる。駅に降り立つと、変わらない地元の風景が彼女を迎えた。その風景の中にある港の匂いが、遠い記憶を呼び起こしてくる。

港へと向かう道のりは、静かでどこか長く感じられた。事務所の前に立ち止まった杏子は、スーツケースを持つ手が少し震えているのを感じた。深い息を一つつき、重い扉をノックする。ノックの音は静寂の中に響き、杏子自身の鼓動に重なるようだった。

扉が開き、そこに立っていたのは柚だった。姉の姿は、記憶の中の面影に重なりながらも、年月を経てどこか鋭さが増していた。日々の漁業を支える中で培われた強さと疲労が彼女の顔に刻まれている。杏子はその姿を見て言葉を失い、ただ目を合わせるだけだった。

柚もまた、杏子を見て一瞬動きを止めた。事務所の散らかった机や母が使っていた帳簿が視界に入る中、杏子の姿が突然現れるその状況に、彼女はどう反応すればいいか迷っていた。風が二人の間を通り抜け、沈黙がさらに深まる。

杏子が一歩中へ入ると、空気の緊張感が微かに変化した。事務所の狭い空間に彼女の存在が浸透するにつれ、柚の背中がほんの少しだが硬直を解いていく。杏子の視線が机に置かれた母の帳簿や書類に留まり、そこに刻まれた母の仕事の痕跡が胸を刺した。

杏子は目を伏せ、深い息をついて静かに言葉を探し始めた。柚はその一瞬の動きを見逃さずに、ただその場に立ち続けた。二人の間に横たわる10年間の空白が埋められることはなかったが、その沈黙の中に物語の新たな始まりが確かに息づいていた。

これは、井上花道が残した船を巡って起こる姉妹の物語。

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