一個のことに極限集中できると変な世界に行くことができます。コレが『ゾーン』です。
そして、その先にあるのが『マックスゾーン』です
オイラの場合、ヘッドホンでガンガンに音楽を聴きながら本を書くのですが、その音楽が聞こえなくなった時には『マックスゾーン』に入っているのではないかと思っています。おそらく、この状態の時は周りの世界とは別世界にいる感じになっているのです。
イメージしやすいように説明すると、集中する時って目をつぶったりして、余計な情報をシャットアウトしたりするでしょ。
その究極が『マックスゾーン』な訳ですから、『覚える作業』も排除している状態だと思うのです。『行動するのと同時に忘れていく』いや『覚えない』ような思考回路にもっていっているのではないか、と思うわけです。
なもんで、ふと我に返ると5時間経っているなんてことがよくあるのです。そして、次の日には、その5時間のことは忘れてしまうわけです。つまり『オイラはなんでこんなこと書いたんだろ?』みたいになっているのです。
所謂(いわゆる)、これが。あの有名な『ゾーンで書いたセリフ』になります。
ただ、怖いですよ。オイラが書いたのに、オイラが書いた理由がすでに分からなくなってるって、人としての機能がいくつか壊れているのかもしれません。
もちろん、全部のシーンをこの状態で書いたりはしません。説明台詞が多かったり、階段(カイダン)踏まなきゃいけないような構成作業が多く含まれるシーンをマックスゾーンで書いたりしたら、よく分からないシーンができあがってしまいます。
階段を登らなきゃいけないのに、なんで降りてるんだ、みたいな。仲良くしなきゃいけない会話なのになんで喧嘩を始めてるんだ、みたいな。
良くも悪くも『キャラクター』が勝手に喋り出したら、その作品にただならぬ可能性を感じることがあるんですけど、ただ、酷評されることも多々あります。
だって、色々とセオリーを無視してるからね、キャラが言いたいこと言い出してるだけだからね。
だからこそ、設計図と言う名のプロットが必要なのです。その残骸が大量のメモだったりします。
ストーリーラインやミッドポイントをちゃんと抑えることを重視して描いていきます。
つまり『書きたいこと』と『書かなきゃいけないこと』は違うのです。このバランスが難しかったりします。行き過ぎると『破綻したストーリー』が爆誕し、抑えた感じ書き上げると『置きに行ったストーリー』生まれます。
限られた制限の中『マックスゾーン』で書きたいことを描いているのです。
ただ、マックスゾーンで書いた事は、すでにどんな気持ちで描いたか覚えていなかったりもするのです。。。
『書きたいこと』を覚えていない時点で、『本当に描きたいこと』だったのかは疑問です。
でもね。きっと。金にもならないことを『趣味の延長』として、人生かけてやっているハズなので、信じてみたいと思います。
なんと言うか『行動した事象』ってのは覚えていても、『その時の想い』って、感情は記憶されていないことが多いモノなのかもしれませんね。だから自分が起こした行動にも『なぜ』が生まれてくるのかも。
たまに思うんですよね。『昨日のオイラ』と『今日のオイラ』は別人なのではないかと。
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ぼくらのリラックスソング
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