知らない人も多いと思いますので、簡単に説明すると。
『ゴドーを待ちながら』はサミュエル・ベケットによる戯曲で、不条理劇の代表作とされています。
内容としては、2人の浮浪者ウラディミールとエストラゴンが、ゴドーという謎の人物を待ち続けています。
舞台設定は木が1本だけある田舎の一本道。
ストーリーは大きく展開するわけではなく、無意味な会話や行動の中で、人間の存在意義や孤独がのらりくらり描かれていて、結局ゴドーは現れることなく誰なのかもわからず幕が閉じます。
ようは。。。よくわからない二人が、よくわからない誰かを待っていて、よくわからない話をした結果、よくわからないままに終わる。そんな話です。
若い時に見た時には、本当によくわかりませんでした、勿論、理解なんてできるわけがありません。
では、現在は理解できているのか?
と言われると、もちろん理解なんてできていません、ただ、納得するための解釈は得たように思うのです。
もちろん、色々な解釈があると思います、無意味な会話の繰り返しは言語の限界を意味しているのかもしれません。
それに、もし、『ゴドー』を神に置き換えた場合には、ゴドーが現れないことにより、希望や救済を追い求める人間の無力さが描かれているのかもしれません。
ただ、オイラは『神様なんていない』と多くの作品で持論を謳っているので、そんな解釈なんてしません。
オイラだったら、どうするとオチがつけられるか考えた結果。
ゴドーとは事象であり『死』である、ということで一旦、納得してみました。
つまり、二人は木の下で死がやってくるのを待っているのです。
なんと言う茶番でしょう。