以前、ホームレスが住む公園を舞台にした『箱庭のトリレンマ』という物語を作ったことがありま
す。脚本を書く際、ボランティア活動をしている方に取材をしたのですが、その中で印象的なやり
取りがありました。

「誰かのために活動を続けるってすごいですね。尊敬します」

そう伝えたオイラに、その人は意外な答えを返してきました。

「自分のためにやっているんです」

はて?とオイラは思い、「どういうことですか?」と尋ねました。

すると、少し神妙な表情を浮かべたあと、彼は笑顔で答えてくれました。

彼は社会の中で「自分は下のほうに分類されている」と感じることが多く、ホームレスの方々に奉
仕することで「自分よりも下の存在がいる」と実感できる。つまり、優越感を得ることができる。。。
そんな理由で活動を続けているのだと言うのです。

もちろん、それが彼の本音かどうかは分かりません けれど「皆の笑顔を見ることができる」とか
「誰かの役に立てるのが嬉しい」などの、綺麗ごとよりも、オイラには、なんだか現実味があった
のです。

自分より不幸な人を見ることで安心する。これは人として邪道なのでしょうか?

もちろん邪道です。人によっては、ここぞとばかりに正義ハンマーを持ち出して批判と言う名の鉄
槌をくだすでしょう。

でもね。オイラは思うのです。理由がどうであれ、その人が誰かに手を差し伸べているのは紛れ
もない事実であって、そのおかげで救われている人も確実に存在しているのです。

だからこそ、そのボランティアを続けている人には、あまり考え込んでほしくないな~と思いまし
た。自己嫌悪にハマればハマるほど、道は閉ざされていき、最終的には闇の中に落ちていくよう
な気がしたからです。

オイラが書いた『箱庭のトリレンマ』の主人公も結局、答えを見つけることができずに自決しまし
た。優しい人ほど、自分自身を追い込んでしまうものなのかもしれません。

しかしながら。『逆もしかり』なのです。

社会で上手くやれる人は、 ちょっとした前向きな詭弁で、ただひたすら頑張り続けているのです。
だからこそ、後ろ向きな考え方には牙をむくのかもしれません。

『気持ち』は解らなくはありません。だって、今までずっと頑張ってきたんだもん。見たくないもの見
せつけられても『見えないフリ』をして、ただただ、頑張ってきたんだもん。今更、「そういう生き方っ
て違うかもね?」なんて言われたら、そりゃー、全力で否定だってしたくなりますよ。

頑張って生きてきた人ほど、自分の人生を否定できなくなるものです。

批判が蔓延る世の中です。誰もが誰かを批判をしたがる世の中です。つまりね。皆が皆、頑張っ
て生きてきたのかもしれません。

だから。どちらでもいいのです。

『前向きだろう』が『後ろ向きだろう』が『ちゃんと目を開いていれば』。

『上を目指してよう』が『下を見下してよう』が『ちゃんと自覚していれば』。

無理ができる時には無理をする。無理ができない時には無理はしない。ただそれだけ、当たり前
の話です。

でもね。

なんとなく、皆が良いと言ってる波に乗っかっていると、気づいた時には、どこか知らないガラパゴ
スに流れ着いてしまい、『当たり前』が『当たり前にできなくなる』なんてことは結構な頻度で訪れ
るのです。

一文で表すなら。

今、アナタが『当たり前』と思っていることは、誰の『当たり前』ですか?

と言う事です。

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