ある実験をしてみました。
年末、最後のtotoの購入に際して、オイラなりにコレで間違いない所まで必死に掘り下げて予想して、一週間後、新しい情報を入れずに同じように再度必死に予想して購入してみる。
すると、ビックリすることにオイラの予想がすべてが一緒になることはありませんでした。
周りにあれだけ能書きを垂れて最初に予想したのに、時間が経ってもう一度予想すると違う結果になるという不思議。
そして思ったのです、台本だって同じなのではないだろうかと。
「今日、執筆活動していた場合」と「明日、執筆活動していた場合」では、おそらく書き上がる台詞は多少、変わっているのではないだろうかと。
だとしたら「今日書くのがいいの」か「明日書いた方がいいのか」なんて最終的には運なのではないだろうか。
もしかしたら、今日よりも明日書いた方がイイ台詞がかけるのではないだろうか。。。
名作が書き上げられるのではないだろうか。。。
と。
ただ、一つだけわかっていることは、物書きなんて人種はなんやかんや言って締め切りを先延ばしにしたがる生き物だという事。
あっ。遅くなりましたが、2025年ですね、あけましておめでとうございます。
新年だからと言って特に形式ばらなくてもいいと思い、中途半端な所で新年の挨拶をしてしまいましたが、別にこれでいいな、とも思うのです、だってさ、そもそもエッセイで「あけましておめでとう」って書くこと自体、無礼極まりない行為ですからね。
なんつっても、エッセイなんて、誰が、いつ、何処で、読んでるか、分からない、つまり、この新年のあいさつだって、現在のオイラからしてみたら、正直、誰に言ってるか分かってないのです、挨拶は相手の目を見据えてハッキリと言わなきゃ失礼だ。
そう、失礼なハズなのです。
今のオイラが本気で、本当に失礼だと思っているのであれば、芯は変わりません、つまり、いつかのオイラだって、きっと同じようなことを書くと思うのです。