変わってた~~~、ってか、捨ててた~~~。

しかも、コレは、芯が変わっているとか、そういう問題ではなく「ただの嘘つき」じゃないですか。

怖いっ。

でもね「その日その日」で書いた事は意外と本音で書いてたのよ。

だから、どっちが本心と言われると、どっちも本心と答えちゃったりするんです。

これじゃ、オイラの芯と言う名の自我なんて信用できたもんじゃないですね。

・・・嘘ついてごめんなさい。

懐かしいですね、まさに「嘘つきアポロジー」です。

この作品を知らない人は公演を見に来た時にDVDを購入してみてください。オイラの代表作です。

コレはね、己に嘘をつき続けていた男が己に嘘を暴かれ自我が崩壊する物語なんだよ。

代表作なんて誰かが勝手に決めてくれるんだろうけど、誰も決めてくれないから勝手にオイラが代表作にしちゃいます。

とか言っちゃってるけど、明日にはオイラの代表作は「彷徨いピエログリフ」ですっ。とか、笑顔で別の作品の名前を出してるオイラもイメージできるので、本当にオイラの自我は何処にあるのやら。

あっ、自我と言えば「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」ってのがすぐ浮かんできたりしますよね?オイラ、この言葉がスゲー好きなんですよね。

この言葉って、フランスの哲学者ルネ・デカルトが提唱した命題らしいんだけど。

オイラは、オイラが考えていると言う事は、少なくとも、そこにオイラと言う概念は存在しているってこと、みたいな感じで思ってました、けど実際は、あらゆるものを疑う中で、唯一疑い得ないものとして「疑っている自分自身の存在」ってことなんだって。

つまり、「自分が疑っている」という行為そのものが、自分の存在を証明している。みたいな。

この「我」は、思考する主体としての自我を指しているみたいだから、デカルト先生にとって、この自我は他のすべてを疑うことができても、自我は疑うことができない唯一の確実な存在となったそうな。

結果的に「我思う、ゆえに我あり」という命題は、思考する自我の存在を確立するための基本的な原理となっているみたいなんだけど。

と。まあ、文章にしたら、なんだか、頭がフワフワしてきました。

しかし。だとしたら。自我は変化しないのだろうか?と言う、そもそも論が浮かんできます。

自我と言う芯がフワフワ変化しているオイラ。

つまり、変化していると言うことは、日によってオイラは別人と言うことになります。

そう考えると、なんかね。怖いっ。

思考は思想と言う名の細い記憶によって繋がれているだけで、昨日のオイラと今日のオイラは別人と言うことになったりしないでしょうか?

だとしたら、今、良いと思った演出も、明日には悪い演出と思うこともあると思うんです。

どうせ、正解なんて誰かが勝手に後から付ける作られたモノサシです。

作ってる最中に正解を探そうなんて片腹痛いわけなのです。

なもんで、今年は思い切って大胆に「正論なんていらない」を心に秘めて作品作りをやってみようと思います。

最終的には感性なのです、そう、感覚とセンス。

自分には皆無だと思っているセンスを少しだけ信じてみようと思います。

それが、今日の気分です。

稽古が始まるまであと少し、この心構えを覚えていますように。

おしまい。2025・01・01

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