井上花道の死。それは井上家にとって避けられない”嵐”だった。漁師にとって嵐は日常の一部のようなものだが、陸にいる家族にとっては異質で、時に不条理だ。そしてこの嵐は、井上家の運命の羅針盤を、どこか別の方向へと捻じ曲げた。
港を離れる船の灯りが、夜空に飲み込まれていった頃。九海丸が進むべき未来は、柚と杏子の思いがまるで磁石のように反発し合う中で、曖昧な形を取り始めていた。
柚は漁港の事務所に籠り、父が遺した九海丸の帳簿や漁具に目を通していた。その姿は、まるでこの小さな机が彼女を支える世界の中心であるかのようだった。「お父さんが命を懸けて守ってきたものを、失うわけにはいかない」。その言葉は柚にとって呪文のようなものだった。言葉が彼女を強くし、時にその重さに押し潰されそうにもなる。けれど、それが彼女の生きる軸だった。
杏子は部屋に閉じこもり、ノートパソコンの画面と長い睨み合いをしていた。画面に並ぶコードが、まるで彼女に問いかけているようだった。「私を完成させるつもりか?」とでも言いたげに。父を助けるために学び始めたプログラムのコードは、いまや彼女にとって未完成の虚しさを映す鏡となっていた。「お父さんがいない今、どうしてこれを続ける意味があるんだろう」。そう呟く杏子の瞳は、宙を漂うように彷徨っていた。
そして、その夜。二人の間に突如として嵐が巻き起こった。柚の言葉は鋭い矢のように杏子に飛び込み、杏子の反応は盾のように反発する。言葉は交わることなく空中をただ滑り続け、室内には張り詰めた緊張が漂うだけだった。互いに抱えた思いの”礁”がすれ違う船の航路を遮り、杏子の心には深い傷が刻み込まれた。
翌朝、杏子は静かに荷物をまとめ、家を後にした。その部屋に残されたのは途中まで書きかけのプログラムのコード。それが未完成であるように、彼女と柚の間にできた裂け目もまた修復されることはなかった。
柚は杏子がいなくなった部屋に立ち、静寂を港の朝の静けさと重ね合わせていた。「お父さんが遺した九海丸を守るため」。そう自分に言い聞かせる中で、彼女の胸に生まれたわだかまりは消えることがなく、ただ海の底に沈んでいくようだった。
別々の航路を選んだ二人。繋がりが断たれたわけではないが、その間に横たわる距離は海よりも深く、二人が再び交わるには10年という歳月が必要だった。
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