■アルカの板

それは今を現在とするならば過去の話。

そう、コレは、井上花道の最後の物語である。

港はまだ夜明け前の薄暗さに包まれていたが、漁師たちはいつも通り忙しげに動き回っていた。冷たい潮風が吹き抜ける中、九海丸の船着場では井上花道が漁具の確認に目を光らせていた。長年にわたる経験が、彼の動きを淀みなくさせる。顔には深い皺が刻まれているが、その背中はまだまっすぐだった。

「今日は潮が荒れる気配があるな。準備を怠るなよ」花道は甲板に立ちながら、仲間たちに的確な指示を出す。その言葉には重みがあり、漁師たちも次々と動きに取り掛かる。

空の色が次第に変わり始め、薄いピンク色が海面を照らし始めた頃、九海丸は港を離れ、漁場へと向かった。船のエンジン音が静まり返った港に響き渡る中、花道は顔をしかめて風の強さを肌で感じ取った。「今日の風は厄介だな」と誰にも聞こえない小声でつぶやいた。

漁場に到着し、漁具を海に投げ込む瞬間、突如として風が強まる。波が船体を叩き、九海丸が小さく揺れ始めた。花道はすぐさま甲板に出て状況を確認しようとしたが、足元を滑らせ、手すりにしがみつくことも間に合わず、甲板から海へと滑り落ちてしまった。

「井上さん」仲間の叫び声が響く中、花道は波にもがきながら救命具に向かって手を伸ばした。

しかし、荒れ狂う海がそれを許すことはなかった。彼の姿は次第に海中へと消え、後には泡立つ水面だけが残された。

その帰らぬ姿に、船上の漁師たちは呆然と立ち尽くすしかなかった。彼らの一人が弱々しく、「井上さん」とつぶやく声が、静かに風に流されていった。

港では何も知らない柚が事務所で書類整理をしており、杏子は父のために学んでいたプログラムのコードを無心で見つめていた。

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